島原鉄道キハ20形の逸話:長崎の海と山を駆け抜けた「昭和のヒーロー」が語り継ぐ、復興と絆のドラマ

※車両画像はイメージです。実車両とは異なることがあります。

島原鉄道キハ20形の逸話:長崎の海と山を駆け抜けた「昭和のヒーロー」が語り継ぐ、復興と絆のドラマ

長崎県の島原半島を、有明海の青い海と雲仙普賢岳の雄大な山並みをバックにトコトコと走っていた黄色いディーゼルカー。
あのどこか懐かしく、愛らしい姿を覚えている方も多いのではないでしょうか?

そう、今回スポットを当てるのは、島原鉄道で長年エースとして活躍し、2008年に惜しまれつつも引退した「島原鉄道キハ20形」です。

国鉄のベストセラー気動車をベースにしながらも、島原鉄道ならではの独自のこだわりと、地域の人々の暮らしに寄り添った温かいエピソードがぎゅっと詰まった、まさに伝説の車両なんですよ。

この記事では、そんなキハ20形が歩んだ波瀾万丈の歴史と、技術者たちが守り抜いた熱いドラマをたっぷりご紹介します!
読めばきっと、あの懐かしいエンジンの音が耳の奥に蘇ってくるはずです。

有明海の風とディーゼルの響きが織りなすノスタルジー

有明海からの心地よい潮風と、ガタゴトと響く心地よいジョイント音。
そして、どこか安心するディーゼルエンジン「DMH17」の重低音。
島原鉄道キハ20形は、島原半島を訪れる人々や地元の方々にとって、まさに「ふるさとの原風景」そのものでした。

乗客が自分でガラガラと重い扉を手で開けて乗り込む、あの「半自動ドア」の感覚を覚えている方もいらっしゃるでしょう。

冬の寒い日、隙間風が入らないようにそっとドアを閉めた時の、あのちょっとした「人の温もり」が、この車両には満ちていたのです。
それではまず、そんな島原鉄道キハ20形が元気に走っていた当時の美しい姿を、映像で一緒に振り返ってみましょう!

昭和の近代化を支えた液体式気動車の導入

時は1950年代後半、日本が戦後の高度経済成長期へと力強く踏み出した時代です。
島原鉄道でも、乗客が急増し、より速く、より快適な車両が強く求められていました。

当時、主流だったのは蒸気機関車が客車を引っ張るスタイルでしたが、これでは坂道の多い島原半島でスピードアップを図るのが難しかったのです。

そこで白羽の矢が立ったのが、当時としては画期的な「液体式気動車」でした。
液体式気動車とは、自動車のオートマチック車のように、クラッチ操作なしでスムーズに加速できる最新技術のディーゼルカーのことです。

国鉄(現在のJR)が1957年に開発した「キハ20系」は、まさに非電化ローカル線の救世主として全国を席巻しつつありました。

「この素晴らしい車両を、ぜひ我が社にも導入したい!」
そう考えた島原鉄道の経営陣と技術者たちは、国鉄にお願いして同じ設計の車両を自社用に製造してもらうことを決意したのです。

ここから、島原鉄道とキハ20形の、長きにわたる二人三脚の歴史がスタートしました。

自社発注車と譲渡車に隠された「島鉄仕様」の秘密

ここで面白いのが、島原鉄道が導入したキハ20形には「自社発注車」と「国鉄からの譲渡車」の2つのグループがあったという点です。

1958年から順次導入された「キハ2001〜2003」の3両は、なんと国鉄から中古で譲り受けたものではなく、新車として直接メーカーにオーダーした「自社発注車」だったんですよ!
私鉄が国鉄の最新鋭気動車を新車で自社発注するというのは、当時としては非常に珍しく、島原鉄道の並々ならぬ熱意が伝わってきますよね。

しかし、単に国鉄の設計図をそのままコピーしたわけではありませんでした。
そこには、島原鉄道の技術者たちがこだわった「独自の設計」が隠されていたのです。

最も大きな違いは、車内の「便所(トイレ)」の有無でした。

国鉄のキハ20形には長距離運用を想定してトイレが設置されていましたが、島原鉄道の自社発注車には最初からトイレがありませんでした。
「島原鉄道の路線長なら、駅の間隔も短いし、トイレは不要だろう。その分、座席を増やして一人でも多くのお客様に快適に座ってもらおう!」
このような、乗客の利便性を最優先に考えた合理的な判断があったのです。

一方で、後から国鉄から譲り受けたグループには、もともと国鉄仕様のトイレが付いていました。
しかし、このトイレは当時の「垂れ流し式」(汚物を処理せず線路上にそのまま排出する方式)と呼ばれるものでした。

環境保全のために、後に島原鉄道線内ではすべて使用停止または撤去されることになります。
同じキハ20形でありながら、自社発注車と譲渡車で車内の構造が違っていたなんて、鉄道ファンにとってはたまらない観察ポイントですよね!

乗客の優しさが育てた手動ドアと雲仙普賢岳の奇跡

島原鉄道キハ20形を語る上で絶対に外せないのが、あの「手で開ける半自動ドア」です。
現在の多くの電車は、ボタンを押すと自動でドアが開きますよね。
しかし、島原鉄道のキハ20形は違いました。

駅に到着すると、プシューという空気の抜ける音がしてドアのロックが解除されます。
その後は、乗降するお客さん自身が、ドアの取っ手を持って「よっこらしょ」と手動で横にスライドさせて開けるシステムだったのです!
「えっ、寒冷地でもない長崎県で、なんで手動ドアなの?」と不思議に思いませんか?

実は、これにはとても温かい理由があったのです。
島原鉄道が走る地域は、冬場になると有明海から非常に冷たい寒風が吹き付けます。

もし、駅に停車するたびにすべてのドアが自動で一斉に開いてしまったら、車内の暖かい空気が一瞬で逃げてしまい、乗客が凍えてしまいますよね。

そこで、「乗り降りするドアだけを、必要な人が手で開け閉めする」というこの手動半自動システムが、乗客の快適性を守るために大活躍したのです。

いつしか、乗客の間では「自分が降りたら、後ろの人のためにドアをそっと閉める」という無言のルールが自然に生まれました。
このちょっとした思いやりが、キハ20形の車内をいつも温かい空気で満たしていたのですね。

そして、島原鉄道とキハ20形が直面した最大の試練が、1991年から始まった「雲仙普賢岳の噴火災害」でした。
大火砕流や土石流により、島原鉄道の南線(島原外港〜加津佐間)は大きな被害を受け、一部区間が長期間にわたって不通となってしまいました。

「もう二度と、この線路を列車が走ることはないのではないか……」
地域全体が深い絶望に包まれる中、島原鉄道の技術者や運行スタッフの皆さんは諦めませんでした。

「こんな時だからこそ、地域の足を絶対に守り抜くんだ!」
復旧作業が進む中、キハ20形は復興のシンボルとして、避難生活を送る人々やボランティアの方々を乗せて走り続けました。

土砂が積もり、傷ついた線路の上を、ディーゼルエンジンの力強い音を響かせながら進むキハ20形の姿は、どれほど多くの人々に勇気を与えたことでしょう。
まさに、地域と一体となって災害を乗り越えた「不屈のヒーロー」だったのです。

黄色い車体に託された島鉄の魂と現在の姿

長年、島原半島の足として親しまれてきたキハ20形ですが、2000年代に入ると老朽化が進み、後継の新型車両「キハ2500形」への置き換えが始まりました。

そして2008年3月。
島原鉄道の南線(島原外港〜加津佐間)の廃止と運命を共にするように、キハ20形は全車が惜しまれつつ現役を引退することとなったのです。

最終運行の日には、全国から集まった数千人もの鉄道ファンや地元住民が沿線を埋め尽くし、黄色い名車との別れを惜しみました。
「ありがとう、お疲れ様!」という温かい声援と涙に見送られ、キハ20形は静かにその役目を終えたのです。

現在、島原鉄道で現役で走っているキハ20形はありません。
しかし、そのスピリットは後継のキハ2500形にしっかりと受け継がれています。
鮮やかなイエローの車体カラーは、まさにキハ20形が確立した「島鉄のアイデンティティ」そのものですよね!

また、引退した一部の車両は、愛好家や地域の方々によって静態保存(動かない状態で美しく残すこと)されたり、写真集や記念碑として、今もなお多くの人々の心の中で走り続けています。
時が経っても、あの黄色いディーゼルカーがもたらした温もりは、決して色褪せることはありません。

デスクトップに蘇る島原鉄道の温もり

いかがでしたでしょうか?
島原鉄道キハ20形は、単なる古いディーゼルカーではなく、激動の昭和から平成を駆け抜け、雲仙の災害を共に乗り越えた「島原の宝物」だったのですね。
もし、この記事を読んで「あの懐かしい黄色い車両に、もう一度会いたい!」と思ったなら、おすすめの楽しみ方があります。

それは、鉄道模型(Nゲージなど)でお部屋の中に島原鉄道を再現してみることです!
トミックス(TOMIX)やハセガワ(モデモ)などのメーカーから、島原鉄道仕様のキハ20形や、特徴的なカラーリングの車両がリリースされています。
あの愛らしい「赤パンツ」と呼ばれた標準色や、国鉄一般色風にリバイバルされた塗装のミニチュアを、ぜひ手にとってみてください。

ミニチュアの黄色い車両を机の上に置き、有明海の青いアクリル板や、雲仙をイメージした緑の山を背景に走らせてみる。
それだけで、お部屋の中が一瞬にしてあの温かい島原半島の風で満たされるはずです!

ぜひ、あなたのお手元で、あの愛おしい「昭和のローカルエース」の雄姿を蘇らせてみてくださいね。

 

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