
「ゴトゴト、カラカラ……」という独特のエンジン音とともに、 黒い煙を上げてプラットホームに滑り込んでくる、あの懐かしい車両。
鉄道ファンの皆さんなら、一度はその姿を写真や映像、 あるいは実際の思い出の中で見たことがあるのではないでしょうか?
今回スポットを当てるのは、国鉄が生み出した伝説の通勤形気動車、「JRキハ35系」です!
今ではすっかり見かけることが少なくなってしまいましたが、 実は昭和の日本の大発展を、陰ながら、そして文字通り身を挺して支え続けた偉大な車両なんですよ。
「ディーゼルカーなのに、どうして通勤電車みたいな形をしているんだろう?」
「あの、ドアが外側に飛び出したような不思議な構造には、どんな秘密があるの?」
そんな疑問をお持ちの方も多いはずです。
この記事を読めば、キハ35系が誕生した驚きの歴史的背景から、 技術者たちが知恵を絞り倒して生み出した独自の設計思想、 そして現場で繰り広げられた人間味あふれるドラマまで、すべてがスッキリと分かりますよ!
当時の熱気あふれる鉄道の旅へ、一緒にタイムスリップしてみましょう!
ラッシュ時の救世主!誰もが記憶するディーゼル音とあの扉
昭和30年代から40年代にかけての日本は、まさに高度経済成長期のまっただ中。
都市部へ人口が爆発的に流入し、毎日の通勤・通学ラッシュは、 今では考えられないほどの「地獄絵図」と化していました。
それは、架線(電線)が張られていない「非電化路線」でも全く同じだったのです。
そんな中、救世主として登場したのが「JRキハ35系」でした。
それまでのディーゼルカーの常識を覆す、3つの大きな扉と、ずらりと並んだロングシート。
そして何よりも人々の目を引いたのが、車体の外側にむき出しになった「外吊り扉(そとづりどびら)」でした!
まずは、そんなキハ35系が元気に走っていた、あの懐かしい空気感を感じられる映像を一緒に見てみましょう!
いかがでしたか?
重厚なディーゼル音を響かせながら、たくさんの人々を乗せて走る姿は、 まさに日本の成長を支える「力強い大黒柱」そのものですよね!
それでは、このユニークな車両がなぜ生まれなければならなかったのか、 その深いドラマをさらに掘り下げていきましょう。
押し寄せる人の波!非電化路線に訪れた限界の時代
時は101系や103系といった、高性能な通勤電車が中央線や山手線でデビューし始めた、昭和30年代後半。
都市部の電化路線では、次々と新しい電車が投入されて輸送力が強化されていきました。
しかし、当時の日本には、まだまだ「電化されていない主要路線」がたくさん残っていたのです。
例えば、関西本線の湊町(現在のJR難波)〜奈良間や、首都圏の八高線、川越線、房総方面の路線などですね。
これらの路線周辺でも、ニュータウンの開発や工場の進出によって、 通勤・通学の乗客が右肩上がりに大激増していきました。
それなのに、当時走っていたディーゼルカーといえば、 客室の端にしか扉がない、旅行用の2ドア車(キハ17系やキハ20系など)ばかりだったのです!
これには、当時の駅員さんも乗客の皆さんも本当に頭を抱えてしまいました。
なぜなら、乗降口が狭くて数が少ないため、 駅に停まるたびにお客さんの乗り降りにものすごく時間がかかってしまったからです。
「ドアの周りが大混雑して、奥に入れない!」
「乗り降りが遅れて、毎日列車が遅延してしまう……」
そんな悲鳴が、各地の非電化路線から上がっていました。
「一刻も早く、101系並みの圧倒的な収容力と、スムーズな乗り降りができるディーゼルカーを作らなければならない!」
そんな、国鉄の絶対的な使命感のもとで開発がスタートしたのが、キハ35系だったのです。
しかし、その開発への道のりは、技術者たちにとって「前代未聞の難題」との戦いでした。
不可能を可能にした設計!技術者たちが導き出した「外吊り扉」の答え
「通勤電車と同じように、3つのドアをつけて、全部ロングシートにすればいいじゃない?」
そう思う方もいらっしゃいますよね。
しかし、ディーゼルカーでこれを実現するのは、想像を絶するほど難しいことだったのです!
なぜなら、電車とディーゼルカーでは、走る「線路の環境」が大きく違っていたからでした。
なぜロングシートと3つの扉が必要だったのか?
当時の非電化路線の多くは、プラットホームの高さが「低い」ままでした。
都心の電車用の高いホームとは異なり、昔ながらの低いホームに対応するためには、 車両の出入り口に「ステップ(段差)」を設けなければなりませんでした。
これが、技術者たちを悩ませる最大の原因となったのです。
車内にステップを作るということは、その部分の床を大きく切り欠く必要があります。
ただでさえ、車体に「3つも大きな穴(ドアの開口部)」を開けることで、 車体全体の強度が大幅に落ちてしまいます。
その上、床まで削ってステップを作るとなると、車体が重さに耐えかねて、 真ん中から「くの字」に折れてしまう危険性すらあったのです!
「これでは、通常の引き戸(ドアを車体の中に引き込む構造)は作れない……。」
技術者たちは、頭を抱えてしまいました。
「戸袋」をなくせ!驚きのアイデアが生まれた瞬間
一般的な電車のように、ドアを開けたときに扉が収まる「戸袋(とぶくろ)」を車体の中に作ろうとすると、 その部分の壁を二重構造にしなければなりません。
これでは車体の強度が保てないだけでなく、車重が重くなりすぎて、 当時の貧弱なディーゼルエンジンでは坂道を登れなくなってしまいます。
そこで、天才的な技術者たちがひらめいたアイデアが、 「ドアを車体の外側に吊り下げて、外側にスライドさせる構造」、 すなわち「外吊り扉」だったのです!
これ、本当にすごい発想ですよね!
外吊り扉にすることで、以下のような劇的なメリットが生まれました。
- 車体の壁を二重にする必要がないため、車体を非常に軽く、かつ頑丈に作ることができる。
- 戸袋がない分、室内の壁をギリギリまで薄くでき、車内の通路幅や座席スペースを広く確保できる。
- 構造がシンプルなため、製造コストを低く抑えられ、大量生産に向いている。
あの、ちょっと無骨で出っ張ったドアの形には、 日本の殺人的なラッシュを何としてでも解決しようとした、 技術者たちの執念と、極限の構造計算が隠されていたのですね!
眩しい銀色の異端児!キハ35形900番台の挑戦
キハ35系の歴史を語る上で、絶対に外せないのが、 1963年(昭和38年)に登場した「900番台」というグループです!
これ、なんと国鉄の気動車としては史上初となる、 「オールステンレス車体」を採用した、超・画期的な車両だったんですよ!
当時、東急車輛製造さんがアメリカのバッド社から技術を導入して開発した、 画期的なステンレス加工技術を用いて製造されました。
赤とクリーム色のツートンカラーが当たり前だった国鉄車両の中で、 塗装を施さない、ギラリと光る銀色の車体は、当時の人々に強烈な未来感を与えました。
「でも、どうして非電化の通勤型に、わざわざ高価なステンレスを使ったの?」
その理由は、「房総半島の潮風」にありました!
当時、キハ35系が大量に導入された千葉地区の路線は、海のすぐ近くを走るため、 鋼鉄製の車両はあっという間にサビてボロボロになってしまっていたのです。
サビに滅っぽう強いステンレス製の900番台は、この塩害への対策として、 実験的かつ実用的に投入され、見事にその期待に応えました。
この技術的な挑戦が、のちのJR東日本のプレハブ式ステンレス車両などの基礎になっていくのですから、 本当に歴史的な名車ですよね!
冷気との戦い!現場と乗客が体験した「キハ35系」のリアルな日常
こうして大いなる期待を背負ってデビューしたキハ35系は、 当初の狙い通り、圧倒的な乗客の収容力とスムーズな乗降を実現しました。
しかし、実際に毎日使われ始めると、 現場や乗客の皆さんからは、さまざまな「悲鳴」や「ユニークな苦労話」が飛び出すことになります。
「ドアが閉まっているのに寒い?」隙間風に泣いた乗客たち
画期的なアイデアだった「外吊り扉」ですが、実は致命的な弱点がありました。
それは、車体の外側にドアを吊るしている構造上、 どうしても「密閉性(気密性)が低くなってしまう」ということでした。
特に冬の寒い時期、北関東の八高線や川越線、あるいは冷たい風が吹きすさぶ東北地区などで、 この弱点が牙をむきました。
「ドアはちゃんと閉まっているはずなのに、すきま風がヒューヒュー入ってきて、足元が凍りつくように寒い!」
そんな苦情が相次いだのです。
しかも、キハ35系は長大なロングシートだったため、 ドアからの冷気が、座っている乗客の足元にダイレクトに吹き付けました。
乗客の皆さんは、マフラーを足元に巻いたり、コートの襟を立てたりして、 寒さに耐えながら通勤していたそうです。
さらに、雨の日や雪の日には、ドアの隙間から雨水や雪が車内に吹き込んでしまうこともあり、 「走る冷蔵庫」なんて、ちょっとありがたくないあだ名で呼ばれることもありました。
それでも、乗客の皆さんは「混雑して乗れないよりはマシ!」と、 このたくましい車両と一緒に、毎日の満員電車を乗り越えていったのですね。
運転士さんも大苦戦?力不足を補い合った協調運転のドラマ
苦労したのは、乗客の皆さんだけではありません。
運転士や整備士の「鉄道員(ぽっぽや)さん」たちも、キハ35系には相当手を焼いていました。
その最大の理由が、エンジンである「DMH17H」のパワー不足でした。
このエンジンは、当時の国鉄ディーゼルカーの標準型で、 非常に信頼性が高く、カラカラという美しい音が特徴の名機でした。
しかし、出力はわずか180馬力。
キハ35系は、頑丈な造りとステップのせいで、車体重量が30トン〜35トン近くもありました。
そこへ、通勤ラッシュ時の乗客がすし詰め状態で乗り込むわけです。
その総重量は、実に40トン以上に達することも珍しくありませんでした!
「エンジンは全力で唸っているのに、スピードが全然上がらない!」
「少しでも坂道に入ると、まるでカメさんのような速度になってしまう……。」
そんな時、運転士さんは絶妙なブレーキ操作やノッチ(アクセル)さばきを駆使し、 エンジンの息遣いを感じながら、なんとか定時運行を守ろうと奮闘していました。
時には、パワー不足を補うために、馬力のある急行型のキハ58系や、 一般型のキハ20系などを後ろに連結して、 「凸凹(でこぼこ)編成」で力を合わせて坂道を登ることも日常茶飯事でした。
異なる形式の車両たちが、手を取り合って満員のお客さんを運ぶ姿は、 今のシステマチックな鉄道にはない、なんとも言えない「温かみ」を感じさせてくれますよね!
時を超えて愛される存在へ!各地へ散った第二の人生と保存の物語
時代が進み、非電化路線の電化が進むと、 キハ35系は次第に都市部での役割を終え、全国各地のローカル線へと移籍していきました。
寒冷地仕様に改造されたり、ワンマン運転対応になったりと、 それぞれの土地に合わせて姿を変えながら、長く愛され続けたのです。
やがて国鉄が分割民営化され、JRに移行してからも活躍を続けましたが、 老朽化や、冷房付きの新しいディーゼルカーへの置き換えにより、 平成の時代に入ると、急速にその姿を消していきました。
しかし、キハ35系の物語はそこで終わりませんでした!
その頑丈な車体と、シンプルな構造が幸いして、 多くの車両が地方の私鉄へと譲渡され、第二の人生を歩むことになったのです。
- 関東鉄道(常総線・竜ヶ崎線):多くのキハ35系が移籍し、通勤・通学輸送の即戦力として大活躍しました。一部の車両は、なんと平成の終わり近くまで現役で走り続けました!
- 水島臨海鉄道(岡山県):国鉄時代の面影を色濃く残した「キハ30形」が、近年までイベント列車や平日の朝夕のラッシュ用として奇跡的に走り続け、全国の鉄道ファンを狂喜させました。
- いすみ鉄道(千葉県):現在、国鉄時代の貴重な生き残りとして、キハ30形が大切に保存されており、当時の感動的な姿を今に伝えています。
現在は残念ながら、JRの現役営業路線で走るキハ35系を見ることはできなくなってしまいました。
しかし、群馬県の「碓氷峠鉄道文化むら」などの博物館や、 有志の皆さんの手によって、今でも美しい状態で動態・静態保存されている車両があります。
あの過酷な時代を生き抜いた鋼鉄の戦士たちは、 今ではおじいちゃんのように優しく佇み、訪れる人々を温かく出迎えてくれているのですね。
デスクトップに蘇る昭和の熱気!模型で楽しむキハ35系の世界
さて、ここまでキハ35系の熱いドラマを振り返ってきましたが、 「あの無骨で愛らしい姿を、自分の手元に置いておきたい!」 そう思った方も多いのではないでしょうか?
そんなあなたにぜひおすすめしたいのが、「鉄道模型(Nゲージ)」の世界です!
実はキハ35系は、大手模型メーカーの「KATO(カトー)」さんや「TOMIX(トミックス)」さんから、 細部まで非常にリアルに再現された高品質なモデルが発売されているんですよ。
模型なら、あの最大の特徴である「外吊り扉」の凹凸感はもちろん、 屋根の上のベンチレーター、床下のDMH17Hエンジンや配管類まで、 手のひらの上でじっくりと眺め、愛でることができます。
以下のような、あなただけの妄想編成を卓上で再現するのも最高に楽しいですよ!
- 首都圏色(タラコ色)のキハ35系を数両連結して、夕暮れの八高線を再現してみる。
- お気に入りのキハ58系やキハ52系と連結させて、国鉄時代ならではの「ごちゃ混ぜ編成」を楽しんでみる。
- ステンレスの900番台を編成のアクセントとして組み込み、千葉地区の夏の海水浴臨時列車を再現する。
模型のスイッチを入れると、小さな車体がコトコトとレールを刻む音が聞こえてきます。
それはまるで、あの昭和の駅のホームで聞いた、懐かしいディーゼル音のよう。
ぜひ、机の上に小さな「昭和の非電化路線」を建設して、 高度経済成長期を支えた隠れた主役、キハ35系に「お疲れ様」と声をかけてあげてくださいね。
失われし名車の記憶は、私たちの心、そして机の上で、いつまでも走り続けます。
それでは、また次回の「失われし車両の『なぜ?』」でお会いしましょう!